Beethoven: Symphonies Nos. 3 & 4
デイヴィッド・ジンマン指揮 / チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
ARTE NOVA Classics / 1998年
恥ずかしながら、このCDを知ったのは比較的最近のことだ。パイプが好きなお客様から教えていただいた。「ジンマンのベートーヴェン、聴いたことあります?」と。正直、名前は知っていたが手に取ったことはなかった。
ベートーヴェンを好きになってからは、もう20年ほどになる。その間にいくつもの全集を聴いてきたし、サイモン・ラトルがベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェン交響曲全集を公開録音した際には、実際にその場に足を運んだこともある。あのときのラトルは、跳ねるようなリズムで音楽を前へ前へと押し出していた。面白い解釈だったし、刺激的だった。
ジンマンは違う。跳ねるのではなく、走る。それも、息を切らさず、姿勢を崩さず、最後まで一定の美しいフォームを保ったまま走り抜ける。聴き終えたとき、汗をかいているのは聴き手の方だ。一音一音がこちらに飛んでくるような緊張感がありながら、不思議と聴き疲れしない。初めて第4番を通して聴いたとき、「この曲は、こういう音楽だったのか」と思った。20年聴いてきたはずのベートーヴェンが、まだこんなに新鮮に響くことに驚いた。
ジンマンという指揮者のこと
デイヴィッド・ジンマンは1936年、ニューヨーク生まれ。20世紀の巨匠ピエール・モントゥーの弟子である。ボルティモア交響楽団の音楽監督を務めて全米有数のオーケストラに育て上げた人だが、彼のキャリアにおける最大の転換点は、1995年にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の音楽監督に就任したことだろう。
ジンマンがチューリッヒで行ったのは、ベートーヴェンの交響曲全集を、世界で初めて音楽学者ジョナサン・デル・マー校訂によるベーレンライター版(ベートーヴェンの自筆譜と初版譜を徹底的に再検証した新校訂版)を用いて録音するというプロジェクトだった。
後世の指揮者や編集者が書き加えた「慣習」を取り除き、ベートーヴェン自身の手稿に立ち返る。音符の修正だけでなく、フレーズの区切り方、アーティキュレーション、装飾音の扱いまで、根本から見直された楽譜である。
従来の楽譜では、長いスラーをかけてレガートに、つまり音と音を滑らかにつなげて演奏するのが当たり前だった。これは19世紀以降の指揮者たちが「そのほうが美しい」と考えて書き足していった慣習だ。デル・マー版ではこれを排除し、ベートーヴェンが実際に書いたとおりの、分離された短いフレーズに戻している。ジンマンの演奏で弦のアタックが鋭く感じられるのは、この楽譜に忠実に従っているからだ。
さらに面白いのは、この最高水準の録音が「Arte Nova」という廉価レーベルから発売されたことだ。学術的に最も先進的な成果が、驚くほどの低価格で市場に放たれた。高踏なエートスに包まれていた最新の楽譜研究を、誰にでも手が届くかたちで「民主化」した。ジンマンは演奏だけでなく、届け方にも革命を起こしていたのだ。
「重さ」ではなく「速度と鋭さ」で表現するということ
ジンマンの演奏を一言で表すならF1レーサー、アイルトン・セナのドライビングに近いと思う。
カラヤンやフルトヴェングラーが、ナイジェル・マンセルのように排気量と車重で路面をねじ伏せるドライブだとすれば、ジンマンとトーンハレ管は、300キロ出ているのにコクピットの中が妙に静かなセナのマシンだ。ベートーヴェン自身が書き残したメトロノーム指示—かつては「演奏不可能」とされた快速なテンポ——にジンマンは忠実に従う。しかし、速いだけではない。フレーズの中に呼吸の空間がきちんと確保されていて、速さが暴力にならない。必死さがない。限界で走っているはずなのに、ステアリングを握る手には余裕がある。これは、オーケストラの技量がなければ不可能なことだ。
弦楽器のアタックは鋭く、しかし軽い。ヴィブラートは装飾的に限定され、金管の咆哮よりも木管の機動性が優先される。その結果生まれるのは、巨大なオーケストラとは思えないほどの透明な響きだ。ベートーヴェンの激しさが「重さ」ではなく「速度と鋭さ」で表現されるとき、音楽はこれほど生き生きとするのだと、この録音は教えてくれる。。
ベートーヴェンの音楽には暴力、騒音、怒りがある。しかし同時に、新鮮さと革命的な側面も聴こえてくるはずだ。私の解釈は決して「イージーリスニング」ではない。
── デイヴィッド・ジンマン(2011年インタビュー)
交響曲第4番という作品のこと
ベートーヴェンの交響曲第4番変ロ長調 作品60は、1806年に書かれた。前年に完成した第3番「英雄」、そして翌年以降に手がけられる第5番「運命」。この二つの巨峰に挟まれて、第4番は長い間、影の薄い存在だった。
シューマンはこの曲を「二人の北欧神話の巨人に挟まれたギリシャの細身の乙女」と評した。美しい表現だが、それが逆に「軽い曲」という印象を定着させてしまったかもしれない。しかし、ベルリオーズもメンデルスゾーンも、この作品の完璧な構築美と独創性を高く評価していた。「英雄」の革命性や「運命」の劇性とは異なる、緻密で優美な、しかし内側に十分な力を秘めた傑作なのだ。
リヒノフスキー公爵の邸宅でフランツ・フォン・オッパースドルフ伯爵の委嘱を受けて作曲されたこの曲は、ベートーヴェンにとって「英雄」の後にどこへ向かうかという問いに対するひとつの回答だったのかもしれない。前へ進み続けるだけが力ではない。精緻に、優美に、しかし鮮烈に。
四つの楽章で起きていること
第一楽章は、変ロ短調の神秘的な序奏で始まる。レナード・バーンスタインが「落ち着くことをためらうようだ」と表現したこの導入部を、ジンマンは重さに頼らず、繊細な緊張感で描く。ティンパニのロールとピッツィカートが生む謎めいた空気感。やがて霧が晴れるように変ロ長調の主部に突入すると、一気に視界が開ける。陽光が降り注ぐような明るさ。ハイドンを思わせるユーモア。快速なテンポの中でも、音楽は急いでいるのではなく、喜びに駆られているように聴こえる。
第二楽章アダージョは、ベートーヴェンが書いた最も美しい緩徐楽章のひとつだろう。ジンマンの演奏では、弦楽器の歌がヴィブラートを抑えた透明な音色で紡がれ、その上で木管が自律的な対話を展開する。テンポは引きずらず、歌の中に自然な推進力を保っている。美しさがそのまま美しさとして届く。
第三楽章は名目上メヌエットだが、実質的にはスケルツォの精神を持つ。ジンマンの鋭いアタックと軽快なリズムが、トーンハレ管のアンサンブルの精度と合わさって、躍動的な音楽になっている。
そして第四楽章。ここがこの録音のハイライトだと、個人的には思っている。ペルペトゥム・モビレ(常動曲)的な無窮動が炸裂する。ファゴットの独創的なソロ。息をつかせぬ推進力。小型化された編成が木管のディテールを浮き彫りにし、すべての音符が明晰に響く。聴き終えたとき、第4番がなぜ「乙女」などと呼ばれてきたのか、正直よく分からなくなる。この曲には、「英雄」や「運命」とは別種の、しかし同等の力がある。
トーンハレという空間のこと
この録音の響きを語るとき、チューリッヒ・トーンハレというコンサートホールの存在を無視することはできない。1895年に建設されたこの歴史的なホールは、室内楽的な親密さと交響的なスケール感を両立させる、稀有な空間だ。
ジンマンはインタビューで、このホールでは「聴衆が奏者の表情を間近に見ることができる」と語っている。大ホールにありがちな過剰な残響がテクスチャーを濁らせることがなく、フォルティッシモにおいても弦と管のバランスが崩れない。第4番のような中規模編成の作品にとっては、理想的な録音空間だったのだろう。
録音は1998年に行われた。Arte Novaのエンジニアたちは、ホールの親密さを活かしつつ、奥行きのある音場を構築している。オーケストラの中からソロ楽器が自然に浮かび上がるような収音は、ジンマンが志向する「すべての楽器が対等に対話する」音楽の本質を、録音の側からも支えている。快速なテンポで演奏される際に、ホールの残響が音の重みを適度に補完してくれる。この空間がなければ、この録音の音は違うものになっていたはずだ。
なぜこの盤か
ベートーヴェンの第4番の録音は、それこそ数限りなくある。カルロス・クライバーの伝説的なライブも、カラヤンの構築美も、それぞれに素晴らしい。
それでも私がこの盤を推すのは、この演奏が第4番の「本当の姿」を見せてくれるからだ。「英雄」と「運命」の影に隠れた小品、ではない。繊細さと力強さが共存する、緻密な美を持った傑作。ジンマンの透明な音響と快速なテンポは、余計なものを全部取り除いて、ベートーヴェンが楽譜に書き込んだものをそのまま鳴らしてくれる。
パイプが好きなあのお客様に感謝している。この一枚を教えていただかなければ、私は第4番の本当の魅力を知らないまま、次の20年を過ごしていたかもしれない。
作曲:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1806年)
指揮:デイヴィッド・ジンマン
管弦楽:チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
録音:1998年 / チューリッヒ・トーンハレ
レーベル:ARTE NOVA Classics
使用楽譜:ジョナサン・デル・マー校訂 ベーレンライター版(新原典版)
備考:世界初のデル・マー版による交響曲全集録音の一部

コメント