エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 Op.85 / エニグマ変奏曲
ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)/ ダニエル・バレンボイム指揮 / フィラデルフィア管弦楽団 / Sony Classical / SICC-1820
名演奏と名盤は、同じではない。
この録音は、その命題をこれほど鮮烈に突きつける1枚。音楽的、芸術的に見れば、決して理想的な演奏ではない。だが近すぎるマイク、弦のざらつき、デュ・プレの呼吸の気配——そのひとつひとつが、病の中にあった人間の現実を伝えるドキュメンタリーになっている。
エルガーとチェロ協奏曲について
エドワード・エルガーがこのチェロ協奏曲を書いたのは1919年、第一次世界大戦が終わった直後のことだ。
帝国の栄光を讃える音楽を書き続けてきた作曲家が、戦争で変わり果てた世界を前に、晩年の内省へと向かった。大編成のオーケストラによる壮麗な響きではなく、独奏チェロが語りかけるような小さな声。初演は不評で、この曲はそのまま40年以上、忘れられた。
その眠りを覚ましたのが、ジャクリーヌ・デュ・プレによる1965年のEMI録音だった。バルビローリ指揮、ロンドン交響楽団との盤だ。その録音についてはまた稿を改めたい。今回取り上げるのは、それから5年後、1970年に収録されたバレンボイムとの演奏である。
ジャクリーヌ・デュ・プレについて
知らない方のために軽く説明をしておく。
彼女は1945年、イギリス生まれ。4歳でチェロに出会い、16歳でプロ・デビュー。翌日の新聞は「チェロを弾くために生まれてきた」と書いた。1967年にバレンボイムと結婚、クラシック界のゴールデン・カップルと謳われ、エルガーのチェロ協奏曲は彼女の代名詞となった。
1969年頃から体の異変が始まったと言われている。少しずつ指先の感覚が失われ、足がもつれた。1973年、多発性硬化症(MS)と診断される。28歳での事実上の引退だった。その後も教育活動を続けたが、病は進行し、1987年に42歳で逝去。プロとして演奏した期間は約12年間。その短さと密度が、彼女を伝説にした。
今回取り上げる1970年の録音は、引退の3年前に作られた。体の異変はすでに始まっていた。それを知ったうえで聴くとき、この演奏の印象は変わると思う。
録音の場所と状況について
1970年11月27〜28日、フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージック。フィラデルフィア管弦楽団とのライブ収録だ。
アカデミー・オブ・ミュージックは1857年に開館した歴史的なコンサートホールで、馬蹄形の客席と木材を多用した内装が特徴的な残響を生む。設計思想としてはヨーロッパの歌劇場に近く、弦楽器の倍音がよく乗る空間だ。
ただし、この録音のマイキングはそのホールの美点を活かす方向には向いていない。
マイクのセッティングが低いのか、弓の摩擦による弦のノイズ、指が指板に触れる音、デュ・プレの呼吸まで拾い上げている。オフマイクで捉えるべきホールのアンビエンスは後退し、近接効果による低域の強調も相まって、チェロが異様なほど前景化した音場になっている。
通常であれば、これは収録上の問題として処理される。しかしこの演奏に限っては、そのマイクのセッティングが、結果としてこの録音の核心を捉えることになった。
演奏について
デュ・プレの演奏を「過剰に感情的」と評する声は、当時からあった。この録音でも、音程のコントロールが揺れる箇所がある。第1楽章主部や第2楽章、終楽章の推進力の強い場面で、チェロがオーケストラより一歩先に感情を走らせるように聴こえる瞬間がある。バレンボイムの指揮との間に、微妙なずれを感じる場面もある。
通常、私たちは録音に技術的な完璧さや、作曲者の意図の正確な再現を求める。しかしこの演奏は、その尺度では測れない。音楽的、芸術的に見れば、決して理想的な演奏ではない。だが、弦のざらつき、ノイズ、呼吸の気配までもが、病の中にあったデュ・プレの現実を生々しく伝える。近すぎるマイクは欠点である前に、この録音をドキュメンタリーにしているといえる。
この録音が作られた1970年、デュ・プレはすでに体の異変を感じ始めていた。多発性硬化症の診断が下るのは3年後のことだが、自分の体が思い通りに動かなくなるかもしれないという予感の中で、すべてをぶつけようとした演奏がここにある。
聴き手が受け取るのは、完璧に構築された音楽ではなく、恐怖と戦う1人の人間の壮絶な生き様そのものだ。
なぜこの盤か
あまり良いとは言えない環境で収録されたことで生まれた弦のざらつき、ノイズ、呼吸の気配。それらはきれいに整音されたスタジオ録音には絶対に記録できない、生々しい人間の魂の記録だ。
名演奏と名盤は同じではない。ではこの録音は何か。
音楽がドキュメンタリーになった瞬間の記録、と私は思っている。再現性のない、一度限りの時間がここに封じ込められている。それがこの盤を、名盤為らしめているに違いない。
録音データ
作曲:エドワード・エルガー(1919年)
チェロ:ジャクリーヌ・デュ・プレ
指揮:ダニエル・バレンボイム
管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
録音:1970年11月27〜28日(ライブ)
録音場所:アカデミー・オブ・ミュージック(フィラデルフィア、アメリカ)
レーベル:Sony Classical
品番:SICC-1820(日本盤、2015年4月22日発売)


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